第1回
こんにちは、今回より南朝の皇居であった吉水神社から、この神社に関する数々の歴史についてお話をしてみたいと思います。
まず、この社は、元は『吉水院』といって今から千三百年前の白鳳年間に創建された、修験僧の僧坊でありましたが明治八年に神仏分離の際に、後醍醐天皇の行宮ということから『吉水神社』に改められました古くから由緒のある格式が高い神社でございます。
この神社の哀史として語らねばならない最初のお話が、源義経と静御前の悲恋物語です。吾妻鏡や義経記という本によれば、文治元年の冬、雪が積った寒い中を兄、頼朝の追手を逃れて、義経、静御前、弁慶達が吉野に潜入して、この吉水院にかくまってもらったことです。義経は、五日間この地で静御前と別離を惜しみ、吉水書院を惜別の舞台として、静御前の悲しい舞を見ながら逃避の生活を送ったが、追われる者の運命で、山伏の姿に身を替えて悄然として吉野落ちをしなければならず、大峰山をめざして逃げるのですが、大峰山は女人禁制のため静御前は、奥州へ落ちのびる義経を涙で見送りました。
『吉野山峯の白雪踏み分けて、入りにし人の跡ぞ恋しき』
と十六才の静御前の歌が残されている。あの天下に名高い義経と静御前の大ロマンス『義経千本桜』の本舞台こそ吉水神社なのです。
第2回
こんにちは、今回は『花と哀史』の第二回目といたしまして、南朝についてお話をしてみたいと思います。花といえば『桜』桜といえば『吉野』そして、あの桜の花のように見事あざやかに咲き、はかなく散り舞った後醍醐天皇の花の生涯こそ、今も歴史を越えて多くの人々の心を熱くさせて涙がこみ上げてきます。
この吉水神社は、後醍醐天皇の行宮であったことから『南朝の皇居』とされています。京都を脱出された天皇が大和に入られ、いずれかを皇居とすべきか迷い求められた時に、当時の住職であった、吉水宗信法印が、吉野全山の僧や大衆を集めて『後醍醐天皇を奉迎すべし』と壬申の乱の故事を語り『反対者あらば吾を殺して行け』とまで叫んで、説得して天皇をここに迎えた。
今、宗信法印のことを語る人は少なくなったがかつて見識のある辰巳長楽翁は、吉水宗信がいなければ、南朝は吉野にはなかったとまで断言された。後醍醐天皇は、吉野から三百人もの僧兵や、楠、和田、西阿等の諸将に護られ、延元元年(一三三六)宗信法印の僧坊である『吉水院』を行在所として入御あそばされそれ以来、吉野は五十六年間の帝都すなわち皇居となったのです。
今も『後醍醐天皇の玉座の間』があり、この前で沢山の人々が涙を流し
『花にねて よしや吉野の吉水の 枕の下に岩はしる音』
と歌われた天皇の御製が心にしみてきます。情熱家で行動派の天皇の激動の人生を思うと胸が熱くなります。天皇親政の建武中興を理想として、博学で、朱子学に明るく、また仏法にも志が深く、和歌にすぐれ音楽にもその才を見せられたすばらしい花の生涯を、五十二才の若さで崩御されたことは、あまりにも哀しく、頼山陽、熊澤審山、本居宣長等が天皇のありしお姿を思い浮かべて、吉水院で声を上げて長い間、涙を流したと伝えられている。ああ、花のごとき帝の一生でございました。
第3回
今回は(花と哀史)の第三回目といたしまして吉野の英雄伝中、その名も高い吉水宗信法印公という豪僧についてお話しましょう。時代の激流に波乱の人生を歩んだこの墨染め桜の豪傑は、今でも吉野の人は忘れず誠忠の臣として墓前に花を手向け熱き涙を流します。
今から六百六十年位前の出来事ですが、鎌倉幕府の悪政と庶民が増税や貧困や飢餓に苦しんでいるのを思い悩んだ後醍醐天皇は、やむにやまれず倒幕の令を諸国に発せられた。時に吉水宗信法印公は、天皇に御味方され吉野一帯の人々をまとめて勤王の御旗の下についた。今の吉野山はもとより下市・上市・龍門の人々が勤王の御旗の下に参集した蔵王堂の階段から宗信公は叫んだ「後醍醐天皇・大塔宮に御味方すれば、この吉野一帯は火の海となるかもしれないしかしあの壬申の乱において天武天皇に御味方した吉野人は、例え後醍醐天皇と共に火に焼かれても悔いはないが皆の意見も聞かせて欲しい」と言ったところ蜂の巣を突いたように反対意見が出た「今の状況下では、幕府側につかなければ損をする。何もこの平和な吉野に戦乱の火の粉を撒き散らす必要はない」など若い僧の意見も出て夕暮れになるも結論がでなかった。この吉野の命運を誰に託すかの為に、大勢の意見が後醍醐天皇に加担しないことにしましょうと損得勘定に走ったやさきに、蔵王堂の階段の上から大音響が響いた。「後醍醐天皇と共に火の中で死すとも恥にはならない。しかしながらもしも今、損得すなわち金銭勘定で逃げたら、その恥は千載に残す、子孫はこの吉野が勤王であるのだから筋を通すべきではないだろうか。反対する者あらば、私を殺してから反対されよ」と全身烈火の如くの形相で叫んだ。一同あまりの凄さに沈黙し「そうだ。神武天皇が熊野からの行幸にもこの吉野地域をどれだけ頼りにされたことか、大海皇子にも御味方した祖先のことを忘れてはいけない後醍醐天皇に御味方しよう」と意見が出始めて、吉水宗信法印公の命を賭けた説得に応じた。今思えば、南朝の本拠地が吉野にあるのも、この吉水宗信法印公がいたからだと吉野の人々が口にするのはもっともなことかもしれない。
そうして吉野の民は大塔の宮と共に吉野城で戦った。足利尊氏の裏切りによって京都の華山院を脱出された後醍醐天皇をお迎えに、吉水宗信法印公は三百人の僧兵を連れ先頭を切って走った。自らの館、吉水院が、戦乱の火の海に巻き込まれる事を覚悟で・・・。
千三百三十六年十二月二十五日、後醍醐天皇は吉野に行幸され僧坊『吉水院』を南朝皇居とし入御されて、ここから南朝の歴史が始められ、五十六年間帝都となったのです。
ある時、後醍醐天皇はかいがいしく身の世話をしてくれる、武骨な吉水宗信法印公に問いかけられた。
後醍醐天皇御製
『みよしのの 山の山守 こととはん 今いくか ありて 花やさきなん』
(吉野の山の桜と、我が人生の花は、何時咲くのでしょうね)
古水宗信法印公
『花さかん 頃はいつとも 白雲の いるを知るべに みよしのの山』
(花が何時咲くか、よくはわかりませんが、必ず素晴らしい花が咲きますよ)
千三百三十九年、後醍醐天皇は風邪をこじらされ肺炎を併発し崩御された。
花を愛し、夢に抱かれ吉野の地に眠る・・・。吉水神社の後醍醐天皇玉座の間の前に立つと、このような所でさぞかし御不自由であっただろうか悔しかっただろうかと胸が熱くなり、涙が込み上げてきます。
第4回
今回は、日本史上、稀に見る偉大な方であり、叡知に満ち、理想と情熱の後醍醐天皇の崩御とその後の『吉水院』の事などをお話しましょう。
後醍醐天皇は延元四年八月九日、夏風邪をひかれ病床につかれた。吉野山はもとより、下市、上市、六田、竜門、川上の人々は、御平癒を祈願したが肺炎を併発された。吉水宗信公の大いなる悲願御祈祷も効果なく・・
『露の身を草の枕に 置きながら 風には よもと 頼むはかなさ』
と、か細い声で宗信公の耳元で仰せられ、看病のかいもなく、八月十五日病床は悪化した。ただ生々世々の妄念ともなるべきは、朝敵をことごとく滅ぼして、四海を太平ならしめんと思うばかりなり。朕すなは早世の後は第七の宮を天子の位につけたてまつり、賢士、忠臣事謀り、義貞、義助が忠功を賞して、天下を鎮めるべし。これを思うゆえに『我が玉骨はたとえ南山の苔に埋もれるとも魂は常に北闕の天を望まんと思う』と遺言し、八月十六日午前一時に崩御された。吉野中は天皇の死を悲しみ、吉水宗信公が上千本の山に向って、顔をくしゃくしゃにして慟哭(大獅子吼)をしたという。吉野の山中挙げて哀愁悲嘆の雲に覆われ後醍醐天皇の隠岐島の御苦労や吉野での耐乏生活を思うとき、流れる涙を誰も禁じえなかった。天皇親政の鏑の御旗の理想に向われた苦難の生涯を五十三才で閉じられた。不屈の天皇、ロマンの天皇の『哀しくも花の如き一生』であった。
崩御の後、お墓所は如意輪寺に北向きに建てられた。宮方にとり天皇の崩御は大きな痛手でありこの際、足利方に味方しようという者さえ出て、それぞれの隠れ家を探し動揺は隠せなかった。そんな僧兵達の四散しようとする者に涙を拭い奮起して参内した吉水宗信公が叫んだ。『今、まさに朝敵を倒し後醍醐天皇の弔いをせん』そしてまた吉野一山の心が一つにまとまった。
『不肖なれども、宗信かくてあらん程は、当山に於いて、足利を恐れるにたろうか』と喝破したので、皆それぞれ安堵し腰を落ち着かせた。いかにも豪快な快男児といえる肝の座った大僧正であつたことだろうか。後醍醐天皇の崩御を知った足利方は、高師直に吉野を襲わせた。吉野ことごとく没落。蔵王堂をはじめ全山焼失するも、吉水宗信法印公達、後村上天皇を抱きかかえ、不死鳥のごとく立ち上がられたのである。起死回生の一遇を夢見たけれど、遂に南朝が天下を統一するときはなかった。吉野朝五十余年の歴史の中でこの吉水神社の担った役割は大きかったと痛感する。
鳴呼、哀しくも花を愛し吉野に骨を埋められた後醍醐天皇の御製
『花にねて よしや 吉野の吉水の 枕の 下に 石走る音』
『あふことの むなしさ 空の浮雲は 行方も しらぬ ながめわ ぞする』
豪僧の吉水宗信法印公・楠正成公・北畠親房公・新田義貞公の、その名も知らない子どもたちが増加しつつある。それは『社会が悪い』『学校が悪い』『親が悪い』と責任を擦りあっている時ではない。歴史を教えるのは明日の日本のために必要不可欠です。わが郷土の誇りを持たせるためにもそれぞれの人が、それぞれの立場で語りべとなり『過去を知れば、明日が見える』を合言葉に、これからも歴史を語って行きたいと願っています。
第5回
今回は、タイトル 『花と哀史』 の花の部分にスポットをあてながら話をしましょう。
文禄三年 (一五九四年)太閤秀吉公が、ねねさんを伴い、五千人もの家来を連れて、吉野の花見をしたことは有名な話です。この吉水神社が 『花見の本陣』となり、秀吉公やねねさんが宿泊され、境内の庭では花見の宴として 『お茶会』 『お能の会』 『歌会』 等が行われました。豊臣秀次はもとより、豊臣家臣団として、その名も高い徳川家康・伊達政宗・加藤清正・前田利家・宇喜田秀家等が勢揃いしました。吉水書院にお泊まりになられることで、狩野派の有名な絵師が吉水で襖絵や障壁画に腕をふるい、建具なども取り替えられ大層な騒ぎであったろうと思います。
『年月を こころにかけし吉野山 花の盛りを今日見つるかな』
と秀吉公は歌会で詠まれ、感激のあまり涙ぐまれたと記録にあります。おそらく秀吉公にしてみれば、戦乱の世尾張に生まれ、織田信長に仕え、苦労に苦労を重ね 『よし、天下をとったら吉野に行き、花見をするぞ』 と心に誓い、歯をくいしばり辛抱して、遂に天下人として関白まで上りつめ、まさに吉野の花見は、秀吉公の優秀の美であろう。
今の吉水神社の境内に『一目千本』という名所旧跡がありますが秀吉公は、そこからの景色に感動され 『絶景じゃ!絶景じゃ!』と大声をあげられ、まるで子どものようにはしやがれた。その場所が今も『見わたしのいとよき所』として遺されています。
先日『二十一世紀に残したい日本の景色』として、この場所から見る景色が《花の部門・第一位》となりまし
た。この一目千本から滝桜を見ると、あまりの素晴らしさに心が打たれ、感激してやまぬ場所です。
『花と哀史』 の終盤にあたり、栄華盛衰の人の世と桜の花の華やかさと散る哀れを思う時、朝露に濡れた花びらが光にキラキラ輝く美しさに似て、花は誉められるために咲くのではない 『ただ、あるがままにに咲き、あるがままに散る』 自然はかくも素直に、悠久の歳月に生きてきた。
花は慢らず、花は語らず・・・
『散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花は花なれ 人も人なれ』
花は散る時、見事に潔く散る。例え万感の涙を飲んでも、散る時は見事である。谷から花びらが風に巻き上げられ舞う。何と美しくはかない花の生涯と思う。はらはら舞い落ちる事さえ哀れである。人は時として、短い人間の生命を忘れ、地位・金が出来ると奢り高ぶり、思い違いをして陰で多くの人に笑われる。『実るほど、頭を下げる稲穂かな』であり、第一等の人間とは深沈厚重なる人物。だから下品・租野であったり、他人に対する思いやりがない人、いつも強い者にはペコペコし、弱い者をいじめる人間は、大きな家に住もうが、肩書きばかり沢山持っていようが、人間としての価値は低い。明日の日本のために、他人のために涙を流し、汗を流し、血を流す人こそ素晴らしくその人の散り際は見事なものです。
『敷島の 大和こころを人問えば 朝日に匂う 山桜花』
「日本人の心は」と尋ねられたら、ただ答えよう『朝日に匂う山桜です』 と・・・
人としてあたたかく生き、二度とない人生を心の命ずるままに、素直に明るく 『生き生きと』 決して偉くない偉くないと自問自答しながら世のため、人のために心を尽くし 『生きています・知っています・やってやる』 の自己中心型の生き方ではなく『生かされて 生きるや 今日のこの命 天土の恩 限りなき恩』「生かされています・まだまだ未熟です・教えて下さい・させてもらいます」の心が大切です。
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