吉水神社の歴史紹介
役行者
若き後醍醐天皇
後醍醐天皇御宸影
吉水神社
は
元
吉水院
と称し今から凡そ千三百年前、白鳳年間(650〜654年)に
役行者
の創立と伝えるきわめて古い吉野修験宗の僧坊であった。
そして明治の初めまで永年の間幾多の歴史を秘めて修験道の勢力と共に発展して来たが明治維新の神仏分離の際(明治八年)神社と改まったものである。元より当社は南朝の元宮でありここに
後醍醐天皇
を祭神とし当時天皇の忠臣であった楠正成、吉水院宗信法印を合祀している。
後醍醐天皇南朝の皇居
延元元年(一三三六)京の花山院より免れた後醍醐天皇が吉野に御潜幸になり
吉水院宗信の援護のもとに当社を南朝の行宮と定められたのである。
かくて天皇が当社に第一歩を記されてよりかの悲壮な吉野朝四代五十七年に渡る
血涙の歴史の第一頁が聞かれここに南北朝の対立が始まったのである。天皇はこう
したへき遠の他に憂悶の数年を過されたが、遂に病を得て悲憤の最後を遂げられたのである。
即ち当社はその南朝の御本家に当たり現在吉野朝、唯一の行宮である。
「
花にねて よしや吉野の吉水の 枕の下に石走る音
」
この有名な御製は今も尚玉座の下に流れ続ける宗々とした瀬古川のせせらぎを
聞かれて歌われた御心中むせぶが如く泣くが如く今に琴線にふれるものがある。
現存されている
当時の玉座
並びに数々の御物を拝観する時そこに神秘的な
南朝の哀史が人々の心に想い起され哀感の念禁じ得ないであろう。
「後醍醐天皇御製」
「後醍醐天皇玉座」
源義経、静御前悲恋の古跡
文治元年(一一八五)
源義経
は兄頼朝の追手を逃れて
静御前
、
弁慶
等と共に吉野に潜人され当社にしばらく亡命されたのであるがそれも束の間追われる者の運命でここから悄然として吉野落をされ奥州へ落延びたのである。
「
吉野山 峰の白雪踏み分けて 入りにし人の跡ぞ
」
と歌われたように当社がいわゆるその天下に名高い
義経
と
静
の大口マンスの舞台である。悲運に生きた一代の英雄と佳人との雪路の別れを今に追想するとき、いかに詩的情景であったであろうか、その余りにも美しい悲恋物語は永く後世に伝えられ愛惜されている。今尚保存されている
「義経潜居の間」「弁慶思案の間」
並びに数々の遺物を見聞きするに際し愛妾一人を残して去った
義経
の胸の内と夫を一途に慕った静御前の心情とが察せられ一入哀愁が胸を去来するであろう。
「義経潜居の間」
「弁慶思案の間」
豊太閤(豊臣秀吉公)豪華花見の本陣
文禄三年 (一五九四)
豊太閤
(豊臣秀吉公)
が当社を本陣として盛大なる花見の宴を催し数日間滞在されて歌の会、お茶の会、お能の会を開いて豪遊され満天下にその権勢を示したのは有名である。
「年月を 心にかけし吉野山 花の盛りを今日見つるかな」
一世の英雄がおのが春を謳歌したもので秀吉の豪快なる一面が現われている。
当時の状況は現存する建物並びに数々の寄贈物を見る時南朝の哀史ときわめて対照的で絢爛たる文化が偲ばれ感慨無量なものがある。
豊臣秀吉公
花見図
桃山時代の獅子頭
豊臣秀吉公寄贈
銅 鐸
豊臣秀吉公寄贈
湯 釜
豊臣秀頼公寄贈